30に成り、今にして思う『大人』とは・・・
「我門家は夜は眠を断ち、昼は暇を止めて之を案ぜよ。
一生空しく過して万歳悔ゆる事勿れ。」
私たち日蓮宗の大切な言葉です。
僅かな時間も無駄にせず、仏法のことを考えなくてどうしますか。
一生むなしく過ごして悔いを残すようなことがあってはなりませんよ。
日蓮大聖人のお言葉です。
我が町高槻にも冬の足跡が聞こえ始め、冷え込み厳しい日が続きます。
体の弱い私はいつ熱を出してしまわないかと戦々恐々です。
そして、いったん熱を出してしまうと、数年前のようには簡単に治らなくなったなぁ、と感じてしまう近年。
実は私、がもんも30の齢を数えるようになりました。
私が昔見ていた30歳はもっと大人であったような気もします。
ある漫画に
『大人とは、自分のことを子どもだと知っている人のことを言う』
という台詞がありました。
大学時代にいたく感銘を受けて、そこいらで言っていた記憶があります。
でも今日、少しこれでは甘いのかな、とも感じています。
と、いいますのも、これはあくまで若年層向けに描かれた物語のセリフである、ということです。
※このセリフが的を射ていないとか、本質ではないとかいう話では決してありません。
お釈迦様がお弟子様の習熟度によって説く教えを変えて行かれたように、
若者向けの”大人”と
大人であることを求められる人の”大人”とは、
少し姿が違うのかな、と思います。
この10年、私の周りにご両親を亡くされた方が多くいらっしゃいました。
10代のときより格段に増えました。
単純に、友人の年齢層が自分と一緒に上がったことが原因でしょう。
彼らは同世代ながら、私のしていない経験を持った人たちです。
その彼らが、一様に
「もっと親と話しておけばよかった」
と言うのです。
20代というのは特有の万能感を抱いている人間も多く、恥ずかしながら私もその一人でありました。
上の年代を馬鹿にし、話を聞かず、自分の能力を根拠なく信じる。
時にその自信もいい方に転がることはあるのですが、大抵は上手くいきません。
そして頭を打って、反省をしながら”成人”の意味を考えていくのだと思います。
その中で、改めて親のありがたみ、親しい大人のたくましさ、賢さ、分厚さを知り、大切な”聞く耳”を得ていくのでしょう。
しかし、若くして親を失ったある自信家な僧侶は、
「実は自らの上に覆うものが、自分を守っていたのだと気づいた」
と言っていました。
「自分で立って、自分で背負って歩くことがこんなにもしんどいとは思わなかった」
と
「初めて、父を尊敬した」
と
彼は私に、父の残したものを守り、続けていく決意を語ってくれました。
自立とは苦しいものです。
決断とは辛いものです。
守るとは痛みを伴うものです。
それでもなぜ人は自立し、決断し、守ろうとするのか。
そうしたいから
としか言えないでしょう。
おぼろげながら、私は大人と言うものを”自由”なものと認識しました。
自由とは。
自らの意志と足で立ち、歩く方向を自分で決められることを自由というのです。
身を寄せるも自由、独り立つことも自由。
信じるも自由、信じぬも自由。
ただその選択に意思があり、自らの心を生かさなければそれは自由の奴隷となってしまうでしょう。
自立し、自由で、自在である。
それを、私は大人と呼ぼうと思います。
万歳悔いることなき一生は、
貴方の意思を込めた選択の上にしかありえないのです。
沙門某 平成29年11月12日
テーマ : モノの見方、考え方。
ジャンル : 心と身体